小さな命のそばで感じたこと:難病の子どもとその家族への支援が育んだ共感
病室の静けさの中で始まった、小さな手との触れ合い
私が長期療養中の子どもとその家族へのボランティア活動を始めたのは、知人の紹介がきっかけでした。漠然と「何か社会の役に立ちたい」と考えていた折、病気と闘う小さな命と、それを支える家族の存在を知り、いても立ってもいられなくなったのです。病院の一室、消毒液の匂いと機械音だけが響く静けさの中で、私はその子、A君と出会いました。彼の手は、病気のために点滴の跡がいくつもあり、とても小さく、少し冷たかったのを覚えています。
活動内容は、A君の遊び相手になったり、絵本を読んだり、ご家族がお見舞いや休憩に行く間の付き添いをしたりすることでした。最初は、どのように接すれば良いのか戸惑いもありました。彼らは日々、想像を絶する困難と向き合っている。私の軽い気持ちでの言葉や行動が、かえって彼らを傷つけるのではないか、という不安があったのです。
言葉にならない思いに寄り添うということ
ある日、A君はいつになく不機嫌で、何をしても笑ってくれませんでした。好きだと言っていた絵本も、遊び道具も投げ出してしまい、ただベッドに横たわって天井を見つめているだけでした。ご家族も看病疲れからか、少し離れた場所で静かに座っていました。私はどうすることもできず、ただA君のそばに座り、彼の小さな手を握っていました。
その時、A君の細い指が私の指をぎゅっと握り返してきたのです。それはとても微かな力でしたが、彼の内に秘められた痛み、不安、そしておそらくは、私に「ここにいてほしい」と訴える、言葉にならない思いが伝わってきたように感じました。私は何も言わず、ただ彼のそばにいること。彼の感情の波に、静かに寄り添うこと。それが、この瞬間に私にできる唯一のことであり、最も求められていることなのだと直感しました。
この経験は、私にとって「共感」とは何かを深く考えさせるものでした。共感とは、相手の立場に立って考えるだけでなく、相手が言葉にできない、あるいは言葉にしない感情や苦しみに、ただ「共にいる」ことで応えることなのかもしれない。知識や技術ではなく、自身の心のすべてをもって相手の存在を受け入れること。その時、初めて「利他性」というものが、義務感や自己満足ではなく、他者への深い共鳴から自然と湧き出るものなのだと感じたのです。
内面に育まれた、静かで確かな変化
A君との関わりを通して、私の心には静かで確かな変化が起きました。以前は、ボランティアといえば何か大きな成果を出すこと、具体的な問題解決をすることに価値を見出しがちでした。しかし、ここでは、ただ「いること」そのものに大きな意味があることを知りました。病気はすぐに治るわけではないし、家族の抱える根本的な問題が解決するわけでもありません。しかし、彼らが少しでも安心して休息できたり、子どもがほんの一瞬でも辛さを忘れてくれたりする、その小さな瞬間を共有することに、計り知れない尊さを感じるようになったのです。
この経験は、私の日常生活における人との向き合い方にも影響を与えました。相手の言葉の裏にある感情や、態度に現れる微かな変化にもっと注意を払うようになりました。そして、必ずしも相手を「助ける」必要はないのだと理解しました。ただ、その人のそばにいて、その人の感情を否定せず、受け止めること。それだけで、相手は孤独から解放され、次の一歩を踏み出す力を得ることがあるのかもしれない。そう考えるようになったのです。
活動が教えてくれた、心のあり方
難病の子どもとその家族への支援活動は、私に多くのことを教えてくれました。それは、困難な状況にある人々に寄り添うことの難しさ、そして、その中に見出す共感と利他性の温かさです。目に見える成果は少ないかもしれません。しかし、病室という限られた空間で、小さな命と、それを支える家族の強さ、そして人間の心の奥深さに触れる経験は、私の内面を大きく成長させてくれました。
共感とは、感情を分かち合うだけでなく、共に時間を過ごし、存在を受け入れ合うことから生まれる絆なのかもしれません。そして利他性とは、その絆の中で自然と湧き上がる、他者の幸せを願う静かな衝動なのだと。この活動から育まれた心は、これからも私の人生の中で、大切な光となってくれると信じています。