手話が繋ぐ心の橋:聞こえない声に寄り添い育んだ共感と利他心
手話の世界へ踏み出した一歩
私が手話通訳ボランティアを始めたのは、数年前のことです。地域の手話サークルに参加したのがきっかけでした。そこには、生まれつき、あるいは病気や事故で聴覚を失った様々な方がいらっしゃいました。手話という視覚的な言語に触れるうちに、単なる手の動きや表情だけでなく、そこに乗せられる感情や思考の深さに魅了されていきました。そして、聞こえる世界と聞こえない世界の間に立ち、コミュニケーションの橋渡しをする手話通訳の役割に強い関心を抱くようになったのです。
本格的に通訳を学び始め、ボランティア活動に参加するようになった当初は、技術的な面にばかり意識が向いていました。正確に単語を覚え、文法を理解し、スムーズに通訳すること。それが最も重要だと考えていたのです。しかし、実際の現場に出るようになり、私のその考えは大きく変わることになりました。
言葉にならない思いに触れた瞬間
ある時、高齢の聴覚障がいのある女性の病院受診に同行したエピソードが、特に私の心に残っています。女性は持病の悪化に不安を感じておられましたが、医師への説明は短く、どこか遠慮がちな様子でした。通訳をしながら、私は単に医師の言葉を手話に、女性の手話を言葉に置き換えることに終始していました。
診察が終わり、病院を出て歩いているとき、女性が立ち止まり、ゆっくりとした手話で話し始めました。「先生には、もっと体の辛さを分かってほしかった」「でも、迷惑をかけたくなくて、言えなかった」と。その時の女性の表情や、手の震え、そして手話の動きには、言葉では言い尽くせない深い悲しみと諦めが滲んでいました。
その瞬間、私は自分がどれほど表面的なコミュニケーションしかしていなかったのかを痛感しましたのです。医師と患者という関係性、高齢であること、聴覚障がいというハンディキャップ。様々な背景の中で、この女性が抱えていたであろう複雑な感情や葛藤に、私は全く寄り添えていなかった。ただの「通訳機械」になっていたのです。
その女性の手話を通して、私は初めて「聞こえない声」の存在を深く意識しました。それは単に音が聞こえないということではなく、言葉にできない感情、社会の中で抱える生きづらさ、そして助けを求めることが難しい状況から生まれる声にならない叫びのようなものだと感じました。
共感と利他性の新しい理解
この出来事を境に、私のボランティアへの向き合い方は大きく変わりました。手話の技術はもちろん重要ですが、それ以上に大切なのは、相手の心の声に耳を澄ませ、その背景にある思いや感情を理解しようと努めることだと気づいたのです。
以来、私は通訳の際、相手の表情や仕草、場の雰囲気にも細心の注意を払うようになりました。そして、単に言葉を置き換えるのではなく、相手が本当に伝えたいことは何なのか、この状況で相手はどのような気持ちでいるのだろうか、と想像力を働かせるように意識しました。それは、相手の立場に立って感じようとする「共感」の実践でした。
時には、通訳の範囲を超えて、制度の説明をより分かりやすく伝えたり、適切な相談先を一緒に探したりすることもありました。それは、相手の困りごとを自分事として捉え、その解決のために行動する「利他性」の発露だったのだと思います。単に決められた役割を果たすだけでなく、相手が安心して、少しでも良い状況になるようにと願う心から生まれた行動でした。
このような経験を重ねるうちに、私は手話通訳という活動が、単なる言語の橋渡しではないことを深く理解するようになりました。それは、人と人との間に心の橋をかけ、互いの存在を認め合い、支え合うための尊い行為なのです。
活動が育む心の内面的な変化
手話通訳ボランティア活動を通じて、私の内面にも大きな変化がありました。以前は、他者の抱える困難に対して、どこか傍観者的な視点を持っていた部分があったかもしれません。しかし、様々な方々と深く関わる中で、自分とは異なる立場で生きる人々のリアリティを肌で感じるようになりました。
それは、想像力を働かせ、相手の感情や状況に寄り添う「共感力」を育んでくれたように思います。そして、その共感から生まれた「何とか力になりたい」という純粋な思いが、「利他性」として具体的な行動へと繋がっていきました。これらの経験は、私の人間的な幅を広げ、他者への優しさや寛容さ、そして社会全体の多様性を受け入れる心を育んでくれたと感じています。
ボランティア活動は、確かに相手のための行為ですが、同時に自分自身の心を豊かにし、成長させてくれる場でもあります。「活動から育む心」とは、まさにこの内面的な変化を指しているのだと、自身の経験を通して実感しています。これからも、手話という心の橋を通して、一人でも多くの方と心を通わせ、共感と利他性を実践していきたいと願っています。