荒れた里山に息吹を:保全活動が育んだ共感と内面の変化
荒れた里山に息吹を:保全活動が育んだ共感と内面の変化
私が里山保全活動に参加し始めたのは、数年前にふと目にした、地元広報誌の記事がきっかけでした。かつて人々の暮らしと密接に関わっていた里山が荒廃し、その生態系が危機に瀕している、という内容でした。漠然とした危機感と、失われゆくものへの寂しさを感じ、何かできることはないかと思ったのです。
活動の場は、市街地から車で少し離れた場所に位置する里山でした。初めて訪れた時、想像以上の荒れ具合に驚きました。かつての棚田は竹林に覆われ、小道は草木に埋もれ、鬱蒼とした森は手入れが行き届かず暗い雰囲気でした。しかし、一方で、木漏れ日の間から見える苔むした岩や、鳥の声に耳を澄ますと聞こえるせせらぎなど、微かに残る自然の息吹も感じられ、この場所をかつての姿に戻したい、という思いが湧いてきました。
活動は、主に草刈り、竹の間伐、植樹、炭焼き小屋の修繕など、肉体労働が中心です。夏の猛暑の中で汗だくになりながら草を刈り、冬の寒さの中でチェーンソーの音を聞きながら木を倒す。正直、楽な作業ではありませんでした。特に活動を始めた頃は、すぐに成果が見えるわけでもなく、「本当にこの活動に意味があるのだろうか」と自問自答することも少なくありませんでした。
ある時、一緒に活動している地元の高齢者の方と話す機会がありました。その方は、子どもの頃の里山の様子や、そこで行われていた祭り、山菜採りの思い出などを目を輝かせながら話してくださいました。荒れてしまった現状を憂いつつも、「この山には命が詰まっているんだ」「昔は皆で助け合って山を守っていた」と語るその言葉に、私は深く心を動かされました。それは単なる昔話ではなく、里山という場所がその方の人生といかに深く結びついているか、そして、失われつつあるものへの深い愛情と、それを守りたいという切なる願いでした。
その方の話を聞いてから、私の活動への向き合い方が変わりました。それまでは単に「自然を保護する」「荒地を整備する」という技術的な側面に目が行きがちでしたが、その場所が持つ歴史、そこに生きた人々の営み、そして、その場所を愛する人々の心に「共感」するようになったのです。私が草を刈る一本一本に、木を植える一株一株に、過去から現在、そして未来へと続く時間の流れと、そこに宿る人々の思いが重なって見えるようになりました。
また、活動を通じて、「利他性」についても新たな気づきがありました。私たちの活動は、直接的に誰かから感謝される類のものではありません。しかし、荒れた場所に花が咲き、鳥が戻ってくるのを見るたび、また、整備された小道を地元の人が散歩しているのを見かけた時など、「未来の誰か」や「そこに生きる動植物」への貢献ができているのだと感じ、静かな喜びが湧いてきました。これは、見返りを求めない、純粋な利他性の実践であると感じられたのです。
里山保全活動は、単に自然環境を整えることだけではありませんでした。それは、過去への共感、現在を共にする仲間との連帯、そして未来への利他心を育む、私の内面を耕す活動でもあったのです。荒れた里山に少しずつ息吹が戻るように、私の心の中にも、活動を通じて得た気づきや学びが根を張り、静かに成長しているのを感じます。
この経験から、私は「心」が育まれる場所は、必ずしも人間関係の中だけではないということを学びました。場所が持つ歴史や、そこに宿る見えない存在(自然や未来世代)に対しても、共感し、利他性を発揮することができる。そして、そのような活動を通して、自身の内面が豊かになっていくことを実感しています。これからも、この里山に寄り添いながら、心に育まれたものを大切にしていきたいと考えています。