絶望の淵の声に寄り添う:いのちの電話ボランティアが語る共感と利他心
受話器の向こうの沈黙に耳を澄ます
私が「いのちの電話」のボランティアを始めて、今年で10年になります。特別な傾聴の訓練を受け、電話の受け方、応答の仕方といった技術的な側面を学ぶ日々は、想像以上に厳しく、また多くの気づきに満ちていました。しかし、実際に受話器を通して誰かの「声にならない声」に耳を澄ますようになった時、訓練だけでは到底及ばない、心の奥底から湧き上がる問いと向き合うことになったのです。それは、「共感とは何か」「利他心とはどのように実践されるのか」という根源的な問いでした。
絶望の淵で交わされる言葉
いのちの電話にかかってくる相談は、生きていく上での様々な困難、孤独、苦悩、そして時に死を意識するほどの切迫した状況に関するものです。電話を受けるたび、私は訓練で培ったスキルと共に、自身の心を精一杯開き、受話器の向こうにいる見知らぬ誰かの存在を感じ取ろうと努めます。
ある夜、電話を取ると、しばらくの沈黙の後、か細い声が聞こえてきました。言葉にならない嗚咽と、断片的な状況説明。その声は、まるで暗く深い海の底から響いてくるかのようでした。私は、その方の置かれた状況を完全に理解することはできません。経験したことのない種類の痛み、絶望かもしれません。ここで求められる共感は、単に「あなたの気持ち、わかります」と言うことではない、と学びました。それは、安易な慰めではなく、その方が今感じているであろう感情、苦しみに、私自身が誠実に向き合い、その方の存在そのものを丸ごと受け止めようとする姿勢なのだと感じています。
その時私ができたのは、ただひたすらに、その声に、沈黙に、耳を澄ますことだけでした。「はい」「ええ」「そうなんですね」という相槌や、短い問いかけを挟みながら、相手が安心して話せるような「空間」を受話器越しに作り出そうと努めました。言葉にならない時間も、その方の内側で何かが起こっている大切な時間なのだと信じ、焦らず待つことにしました。
共感の限界と利他心の形
電話の最中、「私には何もできないのではないか」という無力感に襲われることがあります。直接的な解決策を提供できるわけではありませんし、物理的に助けに行くこともできません。ただ話を聞くことしかできない。これは、ボランティアとして活動する上で、常について回る葛藤かもしれません。
特に、あの夜の電話のように、相手が言葉を発するのも辛そうな時、その無力感は増幅されます。しかし、その時に感じたのは、利他心とは必ずしも「何か大きなことを成し遂げる」ことではないのかもしれない、ということです。もしかしたら、今、この瞬間に、ただ一人の人間として、受話器を通してその方の存在を肯定し、その孤独な時間に寄り添うこと自体が、一つの利他性の形なのではないか。絶望の淵にいる方にとって、自分の声を聞いてくれる人がいる、という事実そのものが、もしかしたら小さな光になり得るのではないか。そう考えるようになりました。
あの夜の電話の終わり際、最初に聞こえたか細い声とは少し違う、ほんの少しだけ、何かが解き放たれたような声で「聞いてくれて、ありがとう」と言われた時、私の心に温かいものが広がりました。大きな変化は起こせなくても、あの時間、私は確かにその方の隣にいたのだと感じることができたのです。
活動が育む、内なる変化
いのちの電話のボランティア活動は、私自身の心に大きな変化をもたらしました。かつては、自分の経験していない苦しみや悲しみに対して、どこか壁を感じていたかもしれません。しかし、多くの電話を受ける中で、人間の心の奥深さ、そして誰もが孤独や困難を抱えうるという普遍的な事実に触れることになりました。
共感は、相手を理解しようと努めるプロセスであり、利他心は、その理解に基づき、自分にできる最善の方法で寄り添おうとする意志なのだと学びました。それは、常に完璧である必要はなく、時には自分の無力さを認めながらも、相手に心を寄せる努力を続けることそのものに価値があるのだと感じています。
この活動を通じて育まれた、声なき声に耳を澄ます力、そして安易な解決策を求めず、ただ寄り添うという利他性の形は、ボランティア活動の中だけでなく、日常生活における人間関係や、自分自身の心との向き合い方にも深く影響を与えています。他者の苦しみに触れることは、自分自身の心の脆さや限界を知ることでもありますが、同時に、人間が互いに支え合うことの温かさや、声にならない思いを想像する力の重要性を教えてくれます。「活動から育む心」は、他者のためだけでなく、自身の内面を豊かに耕していく旅でもあるのだと、日々感じています。