縁側での静かな時間:高齢者の孤独に寄り添い、見つけた共感の形
高齢者支援の現場で出会った静かな時間
私が地域の高齢者支援活動に参加するようになったのは、定年退職を機に、何か社会に貢献したいという思いが募ったからです。当初はイベントの手伝いや送迎など、具体的な作業が多い活動に参加していました。しかし、次第に、もっと人の心に寄り添う活動がしたいと考えるようになり、自宅を訪問して話し相手になったり、安否確認を行う「見守り活動」に関わるようになりました。
その活動の中で、特に印象に残っている方がいらっしゃいます。仮にAさんとしましょう。Aさんは一人暮らしで、ほとんど家から出ることはなく、お話ししても「そうねえ」「大丈夫よ」と短い返答しかされません。最初のうちは、どうすれば心を開いていただけるのか、どんな話をすれば喜んでいただけるのかと、焦りや戸惑いを感じていました。
言葉の奥にあるものに耳を澄ます
Aさんのご自宅を訪問する時間の大半は、静寂に包まれていました。縁側に座って、ただ一緒に庭を眺めたり、お茶を飲んだり。私は何か話さなければ、場を持たせなければ、という義務感にとらわれがちでした。しかし、ある日、Aさんが庭の片隅にある一輪の花をじっと見つめている姿を見て、ふと、無理に言葉を探す必要はないのかもしれない、と感じたのです。
その静かな時間の中で、私は意識をAさんの表情や、縁側を吹き抜ける風の音、遠くで遊ぶ子供たちの声など、言葉以外のものに向けるようになりました。Aさんの穏やかな、しかしどこか寂しげな横顔を見ていると、この静けさの中に、Aさんが長年生きてこられた道のりや、今はここにはいない大切な人たちへの思い、そして現在の孤独感が凝縮されているような気がしてきました。それは、言葉によるコミュニケーションとは全く異なる、感覚的な「共感」の始まりだったのかもしれません。
静寂の中で育まれた共感と利他性
言葉が少ないからといって、心が通わないわけではない。むしろ、言葉に頼らないことで、相手の存在そのもの、その場の雰囲気、流れる時間といった、より本質的なものに意識が向けられるようになりました。私は、Aさんにとって必要なのは、気の利いた言葉や賑やかな時間ではなく、ただ誰かがそばにいるという安心感、そして、言葉にならない思いを静かに受け止めてくれる存在なのだと感じ取るようになったのです。
それは、見返りを求めない「利他性」の実践でもありました。Aさんが私に何かをしてくれるわけではありませんし、劇的に心を開いてくれるわけでもありません。それでも、週に一度、あの縁側で時間を共にすることが、Aさんの日々にほんの少しでも安らぎをもたらすのであれば、それだけで私の活動には意味がある。そう思えるようになりました。自分の「役に立ちたい」というエゴではなく、ただ相手の存在を尊重し、その人にとって良いあり方を静かに見守る。それが、この静かな時間の中で私が学んだ利他性の形でした。
内面への深い気づきと今後の活動へ
この経験を通じて、私の「共感」や「利他性」に対する理解は大きく変わりました。以前は、共感とは相手の気持ちを言葉で理解し、寄り添うこと、利他性とは誰かのために具体的な行動をすることだと考えていました。しかし、Aさんとの関わりは、共感が言葉を超えた深いレベルでありうることを、そして利他性が必ずしも派手な行動を伴うものではなく、静かに寄り添うことの中にも深く存在することを教えてくれました。
この気づきは、私のボランティア活動全体、さらには日常生活における人間関係にも影響を与えています。人は誰もが、言葉にできない思いや、誰にも理解されない孤独を抱えているのかもしれない。そのような見えない部分にこそ、そっと寄り添うことの大切さがある。表面的なコミュニケーションだけでなく、相手の内奥に意識を向ける姿勢は、傾聴の活動だけでなく、他のあらゆるボランティア活動、そして家族や友人との関わりにおいても、私の大切な指針となっています。「活動から育む心」とは、まさにこうした内面的な変化や気づきのことなのだと、今、深く実感しています。これからも、この静かな時間で得た学びを胸に、一つ一つの出会いを大切にしていきたいと思っています。