時間も記憶も越えて:認知症高齢者支援で育まれた共感と利他心
曖昧な時間の中で見つけた心の繋がり
私が認知症高齢者支援のボランティアを始めたのは、数年前に祖母が認知症を発症し、どのように接すれば良いのか戸惑った経験がきっかけでした。かつてのように会話が成り立たない、記憶が曖昧になる、といった状況に直面し、「自分には何もできない」と感じたことが、この分野での活動への関心を高めたのです。現在は、地域包括支援センターが運営する交流スペースで、認知症のある方々との傾聴や、簡単なレクリエーションのサポートを行っています。
この活動を通じて、私は何度も自身の「共感」や「利他性」のあり方について深く考えさせられてきました。中でも特に心に残っているのは、佐藤さん(仮名)という方との関わりです。佐藤さんは穏やかな方でしたが、時折、過去の辛い記憶が鮮明によみがえり、強い不安や混乱を示されることがありました。
記憶の波に揺れる心にどう寄り添うか
ある日の午後、佐藤さんが突然、表情を曇らせ、何度も「家に帰らなければ」「大変なことになった」と繰り返され始めました。その場の雰囲気は、他の利用者さんの楽しそうな声で満たされていましたが、佐藤さんの心の中だけが、過去の出来事によって激しく波立っているように見えました。
私は佐藤さんの隣に静かに座り、「どうされましたか」と尋ねました。佐藤さんは、遠い昔の、ご家族に関わる出来事を語り始められました。その内容は、当時の佐藤さんにとって非常に衝撃的な出来事だったようです。ただ、記憶は断片的で、時間軸も混乱していました。まるで、今、その出来事が目の前で起きているかのように、声は震え、瞳には恐怖が宿っていました。
最初は、なんとか現実の時間に戻して差し上げようと、「大丈夫ですよ、ここは〇〇(施設名)ですよ」「それは昔のことですよ」といった言葉を口にしました。しかし、私の言葉は佐藤さんの心には届いていないようでした。佐藤さんの苦痛に満ちた表情を見ていると、頭で理解した知識や、傾聴の技術が全く役に立たないように感じられました。自分の無力さに直面し、どうすれば良いのか分からず、ただ、その場で立ちすくむような気持ちになりました。
その時、ふと、佐藤さんの「今」感じているであろう、その純粋な恐怖や悲しみに、心が強く引き寄せられるのを感じました。過去の出来事の事実関係を整理することでも、現実を認識していただくことでもなく、ただ、目の前で苦しんでいる人の「心」に寄り添うこと。論理ではなく、感情のレベルで「辛いのですね」と受け止めること。それは、まさに共感の働きかけではないかと直感しました。
私は何も言わず、ただ佐藤さんの手の甲にそっと触れました。そして、「ここにいますよ。大丈夫ですよ」と、繰り返される佐藤さんの言葉に呼応するように、静かに、繰り返し伝えました。事実確認や説得ではなく、安心を届けるための言葉です。佐藤さんは、私の声と手の温もりを感じてか、少しずつ落ち着きを取り戻されました。完全に不安が消えたわけではなかったかもしれませんが、少なくとも、一人ではないという安心感は伝わったように感じました。
この時の経験は、私にとって強烈な気づきとなりました。共感とは、相手の状況を正確に理解することだけではない。たとえ記憶が曖昧であっても、言葉が通じにくくても、その人が「今、感じている」感情の波動に触れ、それを自分の心で受け止めること。そして、その受け止めた心を持って、どう「共にいる」か、どう「在る」かを考えること。それが、認知症のある方との関わりにおける、深く、そしておそらく最も重要な共感の形ではないかと感じたのです。
行為としての利他性、存在としての利他性
そして、「利他性」についても、新たな視点を得ました。それまで私は、利他性とは何か具体的な「行為」をすることだと思っていました。役に立つ情報を伝えたり、何かを手伝ったりすることだと。しかし、佐藤さんとのこのエピソードは、そうではない側面もあることを教えてくれました。
私は佐藤さんの問題を「解決」できたわけではありません。過去の記憶を消すことも、混乱を完全に鎮めることも、私にはできませんでした。それでも、ただそばにいること、安心を伝える言葉をかけること、手に触れること、そういった「存在としての関わり」が、佐藤さんにとって必要な支援となり得たのです。何か大きなことを成し遂げなくても、ただ「共にいる」ことそのものが、その人への利他性となり得る。そこに気づいたとき、私の心は温かい光に包まれたような、満たされた気持ちになりました。それは、見返りを求める利他性ではなく、ただ、目の前の人のために「在りたい」と願う、純粋な利他心の発露であったように思います。
活動から育む、心の奥行き
この経験を通じて、私のボランティア活動への向き合い方は大きく変わりました。以前は、自分が何か「してあげる」こと、具体的な成果を出すことに価値を見出していた部分がありました。しかし、今は、活動を通じて自身の心に何が起きているのか、どんな感情に触れ、どんな気づきを得ているのか、という内面的な側面に、より深く意識が向くようになりました。
認知症の方々との関わりは、予測不能で、時に自身の無力さを痛感することも少なくありません。しかし、記憶や論理を超えたところで、心と心が確かに繋がり合う瞬間があることを、私は知っています。それは、共感という名の温かい光であり、ただ「共にいる」ことの尊さ、すなわち利他心によって育まれるものです。
活動の技術や知識も大切ですが、それ以上に、目の前の人の心に寄り添おうとする自身の心、そしてその心を通じて自身もまた変化し、成長していく過程に、私はこの活動の深い意義を感じています。佐藤さんとのエピソードは、曖昧な時間の中でも失われない心の繋がりと、活動から育まれる自身の心の奥行きを教えてくれた、かけがえのない経験となりました。この学びを胸に、これからも静かに、そして温かく、活動を続けていきたいと思っています。